西村宮内庁長官は、陛下の盾になるおつもりである
東京オリンピック・パラリンピックをどのように開催すべきか?世論は揺れている。
その様な中で、西村泰彦宮内庁長官の「拝察発言」が注目を集めている。
事の発端は、2週間ごとに行われる令和3年6月24日の宮内庁長官定例会見(長官レク)での長官発言だった。
長官レクは宮内庁記者会所属のテレビ局、新聞社の宮内庁担当記者が出席して、2週間の皇室の御動静を長官がメディアを通じて発表する、言わば皇室と国民の橋渡しをする貴重な機会である。
私はジャーナリストではないのでその場に居合わせたことはないが、今上陛下のご成婚の際は、毎回どこかの記者がその内容を伝えてきていたので、大方の察しはつく。
公的な宮内庁長官による御動静の発表だが、そこには「オン」と「オフ」の慣習的な取り決めがある。「オン」は長官発言をそのまま字義通りに報道する事であり、「オフ」(オフレコ)は、具体的に報道するのではなく、報道機関が誤った報道を起こさぬよう、宮内庁と報道機関の紳士協定での「何となくの表現」で報道の下地を作る目的がある。
既に報道されているが、この日の長官レクでは西村長官が下記のように述べたことから、大騒動になっている。
長官「五輪を巡る情勢としまして、天皇陛下は現下の新型コロナウイルスの感染状況を大変心配されておられます。国民の間に不安の声があるなかで、オリンピック・パラリンピックの開催が感染拡大に繋がらないかご懸念されている、ご心配であると拝察致します。」
時系列で整理すると、このレクの2日前の6月24日、総理は「内奏」のため参内している。私の推測であるが、国民の殆どがコロナ禍で疲弊している中で開催されるオリパラは大丈夫なのか?感染を拡大するような事態にならないか?このようなお気持ちで陛下は内奏をお聞きになったに違いない。
即位礼正殿の儀でのお言葉を振り返ってみると「(前略)国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。(後略)」と述べられており、陛下のお気持ちは常に国民とともにあり、国民の安寧を望まれていらっしゃる。
言い換えれば、「国民が安心して暮らせることを願われ、常に国民の思いを受け止めていく」という事に他ならないだろう。
総理が「内奏」でどのようなことを申し上げられたかは分からないが、ご叡慮とは程遠いものであったのであろう。
私は、この構図が国民を苦しめた先の大戦の状況に、思いを走らせざるを得ないのである。
話を長官レクに戻そう。
一般的に言って、陛下のお考えをストレートに宮内庁が発信することは決してない。先例を見ても分かる通り、どうしても伝えなければならない時には「陛下のお気持ちは○○○であると『拝察する』」と述べることが常識と言えよう。
宮内庁記者会の各社キャップならば、それぐらいの事は理解しているはずである。案の定、記者からは「長官、これは『オン』で良いのですか?」と驚きの質問が出た。それに対しても長官ははっきりと「『オン』で結構です」と答えられたという。
私が違和感を持つのは、その直後の内閣の対応である。もちろん、「~拝察する」=「陛下のお気持ち」であることぐらいは、内閣は理解しているだろう。それにもかかわらず、政権中枢は、「これは西村長官の勝手な発言」と一刀両断に切り捨てたことである。しかも総理も官房長官も同じフレーズである。この対応は陛下に対して、あまりにも無礼ではないだろうか?
当たり前のことだが、日本国の主権は国民にある。そしてその信託を受けた政治が、国民統合の象徴である天皇と異なるベクトルで動くことなど、あってはならない。と思うのは私だけだろうか。あたかも戦時下に逆戻りしたような感すらある。
陛下は絶えず相手の立場を尊重される方であり、滅多にお怒りにはならない。しかし理不尽な事を看過されることもない。平成16年5月10日の「人格否定発言」は正にそうであった。
西村長官は相当な覚悟を持って発言されたに違いない。流石に元警視総監だけの事はある。しかも都議選告示日の翌日という絶妙なタイミングを計り、針の穴に糸を通す如く、見事な手腕を発揮されたと思う。
陛下が皇太子時代にも、多くの優れた人材がお側や宮内庁に伺候(しこう)されてきたが、有能が故に更迭されてしまった方がいたのも事実である。
陛下は優れた「表」の長を得られた。これから更に国民の気持ちに寄り添っていかれることであろう。今後、西村長官への風当たりも強くなろう。長官にエールを送りたい。
最後に陛下のお言葉の続きを記して、拙論を終わりたい。
「国民の叡智(えいち)とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。」
(即位礼正殿の儀でのお言葉)宮内庁ホームページより引用