天皇ご一家は、なぜご静養に行かれるのか?
天皇ご一家は、予定されていた、那須御用邸での夏のご静養を取りやめられた。このコロナ禍でのご静養は、多くの人に迷惑をかけてしまう、とのことだ。ご叡慮には、常に、国民と寄り添い、国民とともにあるとのご宸襟から、コロナ禍に苦しむ国民との一体感が感じられる。
陛下は、コロナ禍に対する全国民へのメッセージを出されていない。しかし別稿でも取り上げたが、折節に感想という形でお言葉を述べられている。今回の那須御用邸でのご静養の取りやめは、そうした一連の国民に対するお気持ちの表れだろう。
さて、国民の中には「なぜ天皇陛下やご皇族方は、『ご静養』と称して休暇を長く取られるのか?」という疑問や、批判的な意見があることはよく承知している。しかし、これには訳があるのである。
上皇陛下が正田美智子さんと恋に落ちたのは、旧軽(旧軽井沢)にある、軽井沢会のテニスコートだった。美智子さまとご成婚遊ばされた後も、中軽井沢にあったプリンスホテルの別館を御用邸代わりに利用され、ご静養をされていた。この時代の写真などをご覧になりたい方は、旧軽井沢の銀座通りの奥にある「土屋写真館」を訪れるといいだろう。
私が初等科のころの軽井沢は、実に静かな別荘街だった。別荘地に入ると道は舗装しておらず、土のままだった。私の友人の多くは軽井沢に別荘を持っており、夏休みになると皆、軽井沢の避暑地に行く。東京にいなくても友人と遊ぶ事には事欠かない。旧軽の銀座を歩いていると、たいてい友人に出会う。当家は残念ながら別荘を持たず、その代わり、旧軽井沢ゴルフクラブの前にあった「鹿島の森ロッジ」に8月いっぱい滞在することが常であった。このロッジは当然、鹿島建設の所有地であったが、運営は「芝パークホテル」(東京、御成門)が行っていた。ここはなかなか為になるホテルであった。毎年夏の宿泊客は皆常連で、夕食後ともなると、ロビーの前にあるラウンジに宿泊客が集まってきて、思い思いにくつろぐスペースがあった。結構な紳士が多く、「そこの僕、おじさんが碁を教えてあげよう」などと仰って、私はお誘いに応え、様々なお話を伺った。碁を教わった翌日は、ポーカー、将棋なども教えていただき、紳士としての嗜みを教わったものである。
当時軽井沢には、2軒の貸し乗馬があった。確か、石橋と松葉だったと思う。(現在はタクシー会社になっている)私も、馬事公苑にあった「日本馬術振興会」で乗馬を習っていたこともあり、よく遠乗りをしたものである。「日本馬術振興会」は同級生に三島由紀夫先輩(本名:平岡由紀夫)の娘さんがおり、三島さんに入れてもらった馬術クラブである。軽井沢では、私が毎年乗る馬は決まっており「みどり」と呼ばれたなかなか口の柔らかい馬だった。定宿のロッジには、馬をつないでおける駒繋ぎ(木のバー)があった。私が到着する頃には、その駒繋ぎに「みどり」を繋いでおいてくれる。よく「みどり」の背に跨って、旧軽銀座の入り口にあるスーパー(紀伊国屋)まで買い物に出かけたものである。もちろん紀伊国屋にも駒繋ぎがあった。
天皇ご一家の夏は、8月中旬以降、軽井沢でご静養になるのが定例だった。8月6日は「広島原爆の日」9日は「長崎原爆の日」15日は「終戦記念日」であり、すべて「お慎みの日」である。これらの日には、御所で黙とうされ慎まれる日であるから、一切のご予定はない。したがって、8月15日を過ぎてから、軽井沢でご静養されることになる。当然、私も軽井沢にいるので、始終、遊びに伺っていた。この軽井沢の夏は、今上陛下のご成婚まで続くことになる。
では、なぜ必ず8月はご静養に出かけられるのだろうか?一度陛下に伺ったことがある。「それは御所に勤務してくれている職員を休ませるためです。」とのお答え。確かに、表の人たちはローテーションを組んでまとまった休暇を取ることが出来る。しかし奥の人々は、そうはいかない。奥には、侍従、女官、内舎人、出仕といった人々や、侍医、大膳職もいる。総数を数えたことはないが、皇宮警察も入れれば、かなりの数になる。陛下が御所におられる際は、例え仕事がなくても常勤していなければならない。そして絶えず緊張感を感じているはずである。要はそういう人たちに「命の洗濯」をさせてあげよう、という大御心なのだ。
今年は特別の夏である。おそらく両陛下も職員も、皆お疲れだろう。大変な緊張を求められ続けた令和元年。その翌年にまさかの大災だ。国民全員が感じている不安と焦り。動くにも動けない両陛下のお気持ちを考えると、心が痛む。