ようやく戦時中の空気が分かった

2020/08/22 - 乃万 暢敏 - ブログ記事

今年は、戦後75年を迎えた。戦時中の話は両親から聞かされていたが、どうもピンと来ていなかった。しかし、新型コロナウイルス感染の中で迎えた今年は、平穏な年ではなく、いわば「戦時中」のような「有事」下であると思う。

しかしこのコロナ禍の中で、明確になったことがある。それは人心のベクトルが常識と乖離し始めたのだ。時を昭和16年に戻そう。

昭和16年(1941年)12月8日、帝国陸海軍部は、「本日8日未明、帝国陸海軍は西太平洋上において、米英軍と戦闘状態に入れり」と臨時ニュースを発信した。12月1日の御前会議において、いわゆる「ハル・ノート」への回答を見送り、開戦の決定がなされ、真珠湾への奇襲作戦を敢行した。

軍令部は、山本五十六連合艦隊司令長官率いる日本海軍の総力を挙げて、ハワイオワフ島、真珠湾へ奇襲攻撃を行った。
作戦は成功裏に終わったとの見方もあるが、攻撃時には米国艦隊空母団は真珠湾を離れており、これに攻撃を加えられなかったことが、後々、日本軍の敗退に繋がることになる。米国海軍の空母団を撃破できなかったことにより、山本の戦略は狂い始めてきた。

山本は在外公館武官として在外公館の経験もあり、米国にも留学。米国の国力の大きさと航空機による攻撃の威力を目の当たりにして、米国との戦争をギリギリまで反対していた。

山本の戦略は、戦闘初戦において連合国に打撃を加え、戦況を有利に運び講和に持ち込むことだった。そして山本が最も懸念したのが、米国への戦争布告が襲撃前になされることだった。しかし現実は「不意打ち」になってしまった。これを「だまし討ち」ととらえた米国は、国際法の明らかな違反ととらえ、日本への憎しみを増大させていった。

昭和18年(1943年)4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官は、ブーゲンビル島上空にて、米軍の暗号解読により、一式陸攻ともども打ち落とされ戦死をした。山本の戦死は、米国が行った「アルカーイダ指導者、ウサーマ・ビン・ラーディン暗殺」とほぼ同じ感情で、山本暗殺を実行に移したのである。

昭和19年(1944年)10月、レイテ沖海戦は、日本海軍機動部隊としての事実上最後の海戦となった。これ以降、日本は特攻へと走り始め、戦況は民間人を巻き込む悲惨な運命を迎えることになる。

さて、話を日本国内に戻し、予備学生を特攻攻撃のために、招集命令が出された。このころから、戦時下の恐怖と絶望が人々の冷静な言動を狂わせてきた。

「同調圧力」、これは国民性なのか?当時は、男性は国民服。女性はもんぺ姿が一般的で、バケツリレーや竹やりの訓練を強いられたそうだ。

当然、中にはこれに従わない者も出て来る。そうすると必ず周囲から「非国民!」となじられ、非難の的になる。非難だけならまだよい方である。最悪の場合は、密告により、特高や憲兵によって拘束されることも珍しくなっていた。

「同調圧力」については、日本国が農耕文化だったことに由来するともいわれるが、今回のコロナ禍においても、その「同調圧力」が起こってきていることに、私は危惧を抱いている。

マスク警察がこれを物語っている。ソーシャルディスタンスが2m以上にあっても、マスクを外そうとしない。マスクを着用していな人間に、非難の視線を送り、場合によっては直接的に文句を言う。

日本人は律儀で素晴らしい国民だと思うが、この「同調圧力」が唯一の欠点だ。もう少し冷静になって、科学的理解を深める必要があるのではないだろうか?

コロナ禍の中で感じる「〇〇警察」。これが戦時中の日本社会の風潮に酷似しているように感じ始めた、皮肉なことに、私もようやく戦時下の亡き両親の話が、実体験として理解できるようになったのかもしれない。